やなせたかしの弟・柳瀬千尋って誰?
柳瀬千尋は、やなせたかしの2歳下の弟で、京都帝国大学を卒業後、海軍に入隊し、22歳で戦死した人物です。
柳瀬千尋は1921年に生まれ、やなせたかし(本名:柳瀬嵩)と同じく高知県で育ちました。
やなせたかしの自伝『人生なんて夢だけど』によると、千尋は幼い頃に両親を失い、伯父の柳瀬寛に引き取られて育ちました。
その後、高知県立城東中学校(現在の追手前高校)を経て、京都帝国大学法学部に入学。1943年に卒業後、海軍予備学生として入隊しました。
公式記録では、彼は海軍少尉として駆逐艦「呉竹」に乗艦し、1945年1月に戦死したとされています(『慟哭の海峡』門田隆将、KADOKAWA、2014年)。
千尋は頭が良く、大学で法律を学んだ優秀な学生でした。やなせたかしは詩集『おとうとものがたり』の中で、「弟は柔道2段で頑丈だった」と書いています。一方、やなせたかし自身は「柔道無段で劣等生だった」と振り返っており、兄弟の違いが印象的ですね。
柳瀬千尋は、やなせたかしの弟として、賢くて強い人物でした。彼の人生を知ることで、後の戦死の悲しさがより深く感じられますよ。
柳瀬千尋の戦死:何が起こったのか
柳瀬千尋は1945年1月、バシー海峡で駆逐艦「呉竹」がアメリカ軍に撃沈された際に戦死しました。彼は特攻隊ではなく、通常任務中の乗組員でした。
歴史資料によると、駆逐艦「呉竹」は1944年12月30日から1945年1月にかけて、台湾からフィリピンへ向かう輸送任務中でした。
この時、バシー海峡でアメリカ軍の潜水艦による攻撃を受け、沈没。千尋は乗組員として船と運命を共にしました(海上自衛隊呉史料館の記録)。
やなせたかしは長年、弟が特攻隊だったと誤解していましたが、生存者の証言や公式記録で、それが間違いだと判明しています(『慟哭の海峡』)。
例えば、同じ「呉竹」に乗っていた中嶋秀次さんは、沈没後に12日間漂流して生き延びました。彼の証言が、やなせたかしに弟の最期を伝えるきっかけになったんです。
柳瀬千尋は特攻隊ではなく、普通の任務中に戦死したことがわかりました。この事実が、やなせたかしの思い込みとの違いを教えてくれますね。
柳瀬千尋の死因:公式記録から見る真相
柳瀬千尋の死因は、アメリカ軍の潜水艦による魚雷攻撃で駆逐艦「呉竹」が沈没したことによるものです。
1945年1月、バシー海峡で「呉竹」がアメリカ潜水艦「ピクーダ」の魚雷攻撃を受け、乗組員全員が死亡したと記録されています(アメリカ海軍公式記録)。
やなせたかしは『おとうとものがたり』で、弟が特攻兵器「回天」に乗っていたと思い込んでいましたが、実際は「呉竹」の乗組員だったことが生存者の証言で確認されました。
この誤解は、千尋が「特殊任務」としか兄に伝えなかったことが原因です。
やなせたかしの思い込みと公式記録の違い
項目 | やなせたかしの思い込み | 公式記録の事実 |
---|---|---|
任務 | 特攻隊(回天) | 駆逐艦「呉竹」の乗組員 |
死因 | 特攻で自爆 | アメリカ軍の魚雷攻撃 |
場所 | 不明 | バシー海峡 |
やなせたかしは、弟の死後、骨壺に「海軍中尉 柳瀬千尋」と書かれた木札しか入っていなかったと詩に書いています。これは、遺体が回収できなかった証拠です。
千尋の死因は魚雷攻撃による沈没だとわかり、やなせたかしの誤解が解けた瞬間でもあります。歴史の記録が真実を教えてくれましたね。
やなせたかしと弟の最後の別れ
やなせたかしと柳瀬千尋は、戦前に一度だけ会い、「生きて絵を描いてくれ」という言葉を交わして別れました。
『おとうとものがたり』によると、千尋が海軍に入隊後、1944年にやなせたかしと会う機会がありました。この時、千尋は「僕はもうすぐ死ぬけど、兄貴は生きて絵を描いてくれ」と言ったとされています。
やなせたかしは中国戦線にいたため、これが最後の対面でした。公式記録では具体的な日付は不明ですが、やなせたかしの記述が信頼されています。
やなせたかしは、この別れを詩に残しました。「手を握り合って別れた」と書かれており、兄弟の絆が感じられますね。
最後の別れでの千尋の言葉は、やなせたかしに深い影響を与えました。この瞬間が、彼の人生を支えたのかもしれませんよ。
アンパンマンに込められた弟への思い?
「アンパンマンのマーチ」が弟への思いと関係あるという噂はありますが、やなせたかし本人がそれを否定しています。
ネットでは「アンパンマンのマーチ」の歌詞「なんのために生まれて なにをして生きるのか」が、特攻隊で死んだ千尋への思いだと言われます。
しかし、やなせたかしは『ぼくは戦争は大きらい』(小学館クリエイティブ、2013年)で、「そんなつもりはなかった」と明言。弟の死が創作に全く影響しなかったわけではないものの、直接的なつながりはないとしています。
やなせたかしは戦争体験から「飢えた人に食べ物をあげる正義」をアンパンマンに込めました。これは弟の死よりも、自身の空腹体験が大きいと語っています。
アンパンマンには戦争の影響がありますが、弟への直接的な思いではないことがわかりました。やなせたかしの意図を尊重したいですね。
柳瀬千尋の戦死の全貌
柳瀬千尋は特攻隊ではなく、1945年1月23日にバシー海峡で駆逐艦「呉竹」が沈没し、戦死しました。
時系列で整理します。
- 1943年9月: 京都帝国大学卒業後、海軍予備学生として入隊。
- 1944年: 対潜学校を卒業し、「呉竹」に配属。
- 1945年1月23日: バシー海峡でアメリカ潜水艦の攻撃を受け、「呉竹」が沈没(海上自衛隊記録)。 特攻隊の「回天」は潜水艦から発射される兵器ですが、千尋は駆逐艦の乗組員で、特攻任務とは無関係でした。
生存者の中嶋秀次さんの証言では、「呉竹」が沈む瞬間、乗組員は脱出を試みたが成功しなかったとあります。千尋もその一人でした。
千尋の戦死は特攻ではなく、通常任務中の事故でした。この真相を知ることで、誤解が解けますよ。
弟の戦死がやなせたかしの人生を変えた瞬間
柳瀬千尋の戦死は、やなせたかしに生きる目的を与え、アンパンマン誕生の遠因となりました。
やなせたかしは『人生なんて夢だけど』で、弟の死後、「生き残った自分が何かしなければ」と感じたと書いています。
詩集『おとうとものがたり』では、千尋への思いを詩に込め、それが創作の原動力になったとされています。
アンパンマンは直接弟をモデルにしていませんが、戦争の悲しみを乗り越えるヒーロー像に影響を与えた可能性があります。
やなせたかしは戦後、漫画家として成功するまで苦労しました。弟の「生きて絵を描いてくれ」が、彼を支えた言葉だったんです。
千尋の死は、やなせたかしに大きな影響を与えました。アンパンマンにその思いが少しでも込められていると思うと、感慨深いですね。
よくある誤解とその訂正
「柳瀬千尋が特攻隊で死んだ」は間違いで、正しくは駆逐艦の乗組員として戦死したことです。
- 誤解: やなせたかしが『おとうとものがたり』で「特攻隊」と書いたため、広まった。
- 訂正: 公式記録と生存者証言で、「呉竹」の乗組員だったと判明(『慟哭の海峡』)。 この誤解は、やなせたかしが弟から詳しい任務を聞かされなかったことが原因です。
ネット上では今も「特攻隊の弟」と書かれることがありますが、2025年4月現在、歴史研究者によって否定されています。
正しい情報を知ることで、千尋の死の真相がはっきりします。誤解を解くのは大切なことですね。
まとめ
柳瀬千尋の戦死は、やなせたかしの人生と作品に深い影響を与えた出来事で、その真相を知ることは歴史を学ぶ一歩です。
千尋の死因が特攻ではなく通常任務中の沈没だとわかり、やなせたかしの誤解も解けました。彼の詩やアンパンマンには、戦争の悲しみと生きる力が込められています。
2025年4月、NHK朝ドラ『あんぱん』でも、やなせたかしの人生が描かれ、弟のエピソードが注目されています。
千尋の戦死から、やなせたかしの愛情と正義感が生まれたのかもしれません。