結論:妻は「二人」。同時に複数の妻がいたわけではありません
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)には生涯で二度の結婚がありました。
1人目はアメリカ時代に結婚したアリシア(アリーシア)・“マティ”・フォリー(Alethea “Mattie” Foley)。
2人目は来日後に結婚し、日本名「小泉八雲」の“八雲”として支えた小泉セツです。同時期に複数の妻を持った事実は確認されていません(重婚ではありません)。
まずはざっくり年表で整理
- 1874年6月14日:米オハイオ州シンシナティで、ハーンはアリシア・“マティ”・フォリーと結婚。のちに別居・破綻します(1877年頃に別居)。当時のオハイオでは人種間結婚が違法で、勤務先からも処分を受けるなど社会的逆風に見舞われました。
- 1890年(明治23):ハーン来日。松江へ赴任。
- 1891年(明治24):松江でセツと夫婦として暮らし始め、一般的にはこの年を結婚年と記す資料が多い(後述のとおり、戸籍上の手続きは少し後)。
- 1896年(明治29)2月:戸籍上の正式結婚(入夫:ハーンがセツの戸籍に入り、日本名「小泉八雲」となる)。
- 以後:熊本・神戸・東京で暮らし、四人の子に恵まれます。
- 1904年(明治37):八雲没。
1891年=「社会生活上の結婚」表記、1896年=「法的(戸籍上)の結婚」。資料で年が違うのはこのためです。
妻(1)アリシア・“マティ”・フォリー――若き日の、逆風の結婚
最初の結婚相手はアリシア(マティ)・フォリー。1874年にシンシナティで挙式しました。
彼女は当時「黒人(元奴隷)」として記録されることが多く、人種間結婚が違法だったオハイオでの結婚は、ハーンにとって職を失うほどの大きな社会的リスクを伴いました。
ふたりは1877年ごろに別居、やがてハーンはニューオーリンズへ移り住みます。結婚の詳細(形式的な解消の手続きや正確な破綻時期)は史料によって叙述が異なりますが、日本に渡るはるか前に関係は解消しています。
このエピソードが後年「八雲にはアメリカに別の妻がいた」という短い言い回しで広まり、“妻が何人もいた?”という誤解の火種になっています。
妻(2)小泉セツ――“八雲”を日本に根づかせた伴走者
出会いと結婚のかたち
1890年に来日したハーンは松江で英語教師として赴任。家政や身の回りを助けるために紹介されたのがセツでした。
ほどなく生活を共にするようになり、1891年に夫婦として暮らし始めます。
その後、1896年2月に入夫の形で戸籍上の結婚を完了。ここでハーンは日本国の戸籍に入り、日本名「小泉八雲」を名乗るようになります。
日本で家庭を持ち、日本社会の一員として生きるための法的・社会的基盤を整える選択でした。
作品づくりを支えた「語り」の力
セツは、当時の日本の暮らしや民話・習俗を生きたことばで語って伝える人でした。
八雲の代表作『知られぬ日本の面影』『心』『怪談』などの背景には、セツの語りと家庭という安定がありました。
ふたりは松江から熊本、神戸、東京へと移り住みながら、三男一女の子宝に恵まれます。
子どもは4人。次男だけ「稲垣」姓の理由
八雲・セツ夫妻には四人の子どもがいます。一般的な並びは以下の通り。
- 長男:小泉一雄
- 次男:稲垣 巌(いながき いわお)
- 三男:小泉清
- 長女:小泉寿々子(すずこ)
(出生順・表記は主要参考の通り)
「なぜ次男だけ稲垣姓?」
セツは稲垣家の養女だった縁があり、1901年9月24日に次男・巌が稲垣家(養母:稲垣トミ)を継ぐ形で養子縁組・戸籍移動したためです。したがって巌のみ「稲垣」姓になりました。
なぜ「妻が何人も?」という疑問が生まれるのか(3つの原因)
- アメリカ時代の結婚(フォリー)と、日本での結婚(セツ)が“地続きに”語られがち
時系列を知らないと「同時期に二人?」と誤解しやすい。実際には大きく隔たった時期の別々の結婚です。 - 1891年結婚説 vs 1896年正式結婚説
生活上は1891年から夫婦、戸籍上は1896年に入夫婚。資料の書き分けにより、読者側で混乱が起きやすい。 - セツの前婚(若き日の離婚)という別の“結婚歴”が、セツ側の伝記で語られる
セツ自身にも若い頃の結婚と離婚があり、それを「八雲の“妻”の結婚歴」と混線させてしまう読み方が生じることがあります(あくまでセツの前婚)。
人生の選択としての「入夫婚」――1896年の法的手続きに込めた意味
ハーンは自らセツの戸籍に入るという決断をしました。
これは、明治日本で国際結婚がまだ珍しく、制度や社会の壁も少なくなかった時代に、家族を守り、社会の中で生きる覚悟を示す選択だったと解釈できます。
日本名「小泉八雲」としての活動は、この法的基盤のうえで花開きました。
セツがもたらした“日本の心”――作品世界に宿る共同制作の空気
八雲の文章は、単に「見聞記」や「訳出」ではありません。セツが語る生活の細部・昔話・信心・しきたりが、八雲の英語文体に再構成され、世界へ渡っていきました。
研究者はしばしばセツを「再話(リテリング)の重要な協力者」として位置づけます。家庭=暮らしの可視化が、作品の“温度”を生みました。
補足Q&A:細かいところまで知りたい方へ
Q1:フォリーとの婚姻解消は正式離婚? 別居?
A:史料の書きぶりはさまざまですが、1877年ごろには別居し、その後ニューオーリンズへ移住。以降、日本渡航以前に関係は解消されています。法手続きの具体は記録に差があるため、研究書でも表現が分かれます。
Q2:子どもは本当に4人? 名前は?
A:主要事典的資料では四人(長男一雄/次男 巌/三男 清/長女 寿々子)で一致しています。次男だけが稲垣姓なのは養子縁組のため(1901年)。
Q3:結婚年が「1891」と「1896」で揺れるのはなぜ?
A:1891年=夫婦として暮らし始めた年、1896年=戸籍上の正式結婚(入夫)。どちらを“結婚”と呼ぶかで表記が分かれます。
まとめ:八雲の“二つの結婚”が、ひとつの人生をかたちづくった
このように見ていくと、「妻は何人も?」という疑問は、時期の違う二つの結婚と、1891/1896年という“二つの結婚年”、そしてセツ側の前婚とが情報として絡み合った結果だとわかります。
事実を順にほどけば、答えはシンプル――二度結婚、同時多妻ではない。これが、八雲の人生の実相です。
参考にした主な史料・ページ(読みものガイド)
- ウィキペディア(基礎データの確認):配偶者・子ども一覧、主要年次。一次史料ではありませんが、出発点として便利。ウィキペディア
- 松江・小泉八雲記念館(公式解説):1896年の入夫による法的結婚、家族の移動、創作背景の要点がまとまっています。hearn-museum-matsue.jp
- Alethea “Mattie” Foley(UKY/NKAA):1874年の結婚。米国時代の関係を確認するのに有用。nkaa.uky.edu
- The New Yorker(2019年記事):人種間結婚が当時のオハイオで違法だった背景や、1877年の別居後の移住についての概説。読み物としても面白い。The New Yorker