最近、大谷翔平選手や山本由伸投手が所属する「ロサンゼルス・ドジャース」と日本人選手の関係が、ニュースや特集でよく取り上げられています。
そのときに、必ずといっていいほど名前が出てくるのが
「アキヒロ・アイク・イクハラ」こと、生原昭宏(いくはら・あきひろ)さん です。
彼は選手ではなく、ドジャース球団の職員として、日米の野球をつなぐ大きな役割を果たしました。
この記事では、公開されている情報や書籍、インタビューなどをもとに、
- 妻・生原喜美子さん
- 息子たち
- 孫の世代
- そして“もう一つの家族”ともいえるオマリー家
について紹介していきます。
アイク生原とはどんな人物?
まずは、簡単に本人のプロフィールから整理しておきましょう。
- 本名:生原 昭宏(いくはら・あきひろ)
- 愛称:アイク・イクハラ(IKE IKUHARA)
- 生年:1937年1月20日
- 没年:1992年10月26日(享年55)
- 出身:福岡県田川郡香春町
- 経歴:
- 早稲田大学野球部でプレー
- 社会人野球チーム(リッカーミシン)で活躍
- 亜細亜大学硬式野球部監督を務める
- 27歳で単身渡米し、ドジャース傘下球団の用具係からスタート
- のちにドジャースのオーナー補佐兼国際担当として、日米野球交流の中心人物になる
野球殿堂博物館の紹介では、彼は
「プロ・アマを問わず、幅広い日米野球交流の中心的役割を果たした」
と評価されています。
巨人や中日のアメリカ・キャンプを実現させたり、日米大学野球、野球留学生の受け入れなど、表には出にくい「調整役」として、多くの人を動かしてきました。
そんな彼の根っこには、「家族を大切にする」という価値観がありました。
そのことがよく分かるのが、次の「妻とのエピソード」です。
妻・生原喜美子さん|『ドジャースと結婚した男』に込められた想い
妻は「夫の人生を本にした」作家
生原昭宏さんの妻は、生原喜美子(いくはら・きみこ)さん。
彼女は、夫の生涯を振り返った本
『ドジャースと結婚した男 夫・アイク生原の生涯』
の著者です。
タイトルだけ見ると、
「ドジャースと結婚したのは夫だけでしょ?」
と思ってしまいますが、実際には、
「夫がドジャースと人生を共にしたように、妻である自分も、家族も、ドジャースと“結婚”して生きてきた」
という意味合いが込められていると考えられます。
この一冊は、
- 31年間連れ添った妻の目線から見た「アイク生原」
- ドジャースと日本野球をつないだ舞台裏
- 異国での暮らしと、家族としての葛藤
が書かれた、とても貴重な証言集になっています。
「2年間の別居」とオマリー家のひと言
フジテレビの特集記事によると、1965年に生原さんが初めてアメリカへ渡ったとき、最初の2年間は単身赴任だったと紹介されています。
- 夫:アメリカでドジャースの雑用係
- 妻と子供:日本で生活
という、かなり大変な状況です。
ところが、当時のオーナー家であるオマリー家は、
「家族は別々に暮らすものではないよ、アイク。
妻と子供をアメリカに呼びなさい」
と声をかけたそうです。
この一言がきっかけで、妻・喜美子さんと子供たちはアメリカに移り住むことを決断します。
もしこの言葉がなければ、家族は長期間離れ離れになっていたかもしれません。
ここには、
- 異国でキャリアに挑戦する夫
- 生活環境も言葉も違う土地へ飛び込んだ妻と子供
- その家族を「一つのチーム」として支えたオマリー家
という、三つの家族の物語が重なっています。
「夫の仕事=家族の人生」だった
喜美子さんの本のタイトルが示す通り、
「夫の仕事は、家族の人生そのものだった」
と言っても大げさではありません。
- 試合や遠征で家を空けがちな夫
- 言葉も文化も違うアメリカで、生活のベースを作る妻
- 父の姿を見ながら育つ子供たち
華やかに見えるメジャーリーグの世界ですが、その裏には、妻として、母としての苦労もたくさんあったはずです。
しかし、喜美子さんはその「大変さ」をそのまま愚痴としてではなく、一冊の本という形で残しました。
これは、夫だけでなく「自分や子供たちも、この歴史の一部なんだ」という誇りの表れでもあるように感じられます。
息子たちの歩んだ道|医療と野球、それぞれの“架け橋”
息子は少なくとも2人
家族についてまとめたブログや記事を総合すると、
アイク生原さんには少なくとも2人の息子がいると考えられています。
正式な名前や顔写真までは広く公開されていませんが、
- 1人はアメリカで医師(または医療関係者)として働いているとみられる
- もう1人は、ドジャース球団のスタッフとして、日本人選手との関係づくりに関わっていたと紹介されることが多い
と報じられています。
いずれにしても、父親と同じように「人のために動く仕事」を選んでいるのが印象的です。
東日本大震災と「母国・日本を助けたい」という想い
一部の報道やブログでは、医療関係の仕事をしているとみられる息子さんが、
東日本大震災(2011年)のとき、医療チームの一員として日本に来たというエピソードが紹介されています。
アメリカ育ちでありながら、
「母国・日本の力になりたい」
という想いを持って行動した――という話は、父・生原昭宏さんが
- 日米の選手をつなぎ
- 留学生を世話し
- 国をまたいで人を支えてきた
その姿とどこか重なります。
もちろん、細かい状況のすべてが公式に確認できるわけではありませんが、
「両親の祖国・日本を助けたい」という感覚は、家庭での会話や父の仕事を通じて自然に育ったのかもしれません。
ドジャース球団スタッフとして、父の志を継ぐ息子
もう一人の息子さんは、ドジャースの球団スタッフとして働いていたとされています。
一部の記事では、
「野茂英雄さんのスカウトに関わった」
という記述もあります。
野茂投手は、メジャー挑戦の先駆者として知られていますが、
そのドジャース入りの裏にも、アイク生原さんの存在があったと語る記事は少なくありません。
もし息子さんがその流れの中で仕事をしていたのだとしたら、
- 父が築いた「日米の信頼関係」
- それを引き継ぐ形で、次の日本人選手たちをサポートする息子
という、とても美しいバトンリレーが見えてきます。
孫・興梠サラさん|サーフィン界に受け継がれるDNA
アイク生原さんの「孫」として名前が挙がるのが、
サーファーの興梠サラ(こうろぎ・さら)さんです。
- 1996年生まれ
- アメリカ・カリフォルニア出身
- カリフォルニア大学バークレー校卒
- サーフィンの元・日本強化指定選手としても活躍
といった経歴を持ち、ファッション誌やインタビューでもたびたび取り上げられています。
彼女自身がインタビューの中で、
「MLBとNPBの架け橋となった祖父(アイク生原)のような存在になりたい」
と語っています。
ポイントはここです。
- 祖父:野球で日米をつないだ「架け橋」
- 孫:サーフィンとビジネスで日米をつなぐ「架け橋」になろうとしている
血のつながりだけでなく、「人と人をつなぐ」という価値観が世代を越えて受け継がれているのが分かります。
スポーツのジャンルは違っても、
- アメリカと日本の両方にルーツを持ち
- 両方の文化を理解し
- その架け橋になりたいと思う
という姿は、まさに“アイク生原ファミリー”ならではのストーリーだといえるでしょう。
オマリー家との絆|もう一つの「家族」の物語
アイク生原さんの「家族」を語るとき、
血のつながった家族だけでなく、オマリー家との深い絆も外せません。
「家族は別々に暮らすものではない」という一言
先ほども少し触れましたが、ドジャースのオーナー家であるオマリー家は、
「家族はバラバラで暮らすものじゃない。妻と子供をアメリカに呼びなさい」
とアイク生原さんに伝えました。
普通の会社なら、
「仕事なんだから、家族は日本に残しておきなさい」
と言われてもおかしくありません。
しかし、オマリー家は「家族こそが一番大事」という価値観を持ち、それをスタッフにも向けていました。
この考え方に救われたのは、
- 異国で働くアイク生原さん本人
- そして、決断を迫られた妻と子供たち
だったはずです。
お墓も「隣同士」という特別な関係
日刊スポーツの記事によると、
アイク生原さんは、オマリー家のお墓のすぐ隣に埋葬されていると紹介されています。
これは、単なる「社員とオーナー」の関係を超えた、
「家族同然」としての扱いだと考えられます。
さらに、アイク生原さんの死後も、
オマリー家と早稲田大学との交流は続いており、
彼を「家族」と呼ぶ声も記事の中で紹介されています。
- 日本の家族
- アメリカでの“もう一つの家族”であるオマリー家
この二つの家族のあいだに立っていたのが、アイク生原さんだったのです。
家族エピソードから見える「アイク生原」という人
ここまで、
- 妻・喜美子さん
- 息子たち
- 孫・興梠サラさん
- オマリー家
といった「家族」をめぐる話を見てきました。
それらをまとめて眺めると、
アイク生原さんとは、次のような人物だったことが見えてきます。
家族を犠牲にしない「仕事人」
アメリカに渡るとき、一時的には家族と離れて暮らすことになりましたが、
オマリー家の助言もあり、最終的には家族もアメリカで一緒に暮らす道を選びました。
それは、
- 「仕事か家族か」という二者択一ではなく
- 「仕事も家族も、両方大切にする」
という選択だったとも言えます。
次の世代に「バトン」を渡した人
- 息子は「医療」「野球」という形で人を支える仕事に就き
- 孫はサーフィンとビジネスで日米をつなごうとしている
という流れを見ると、
アイク生原さんの「人と人を結びつける生き方」が、そのまま家族に受け継がれているように感じられます。
これは、お金や名声ではなく、
価値観や生き方のバトンを渡した、と言えるのではないでしょうか。
「家族の記憶」が、今も物語を続けている
妻・喜美子さんの本や、
息子・孫世代のインタビュー記事、
ドジャース関係者の証言などを通して、
「アイク生原という人は、どんなふうに人と接していたのか」
が少しずつ浮かび上がってきます。
それは、どれも一人の天才の伝説ではなく、
- 家族
- 友人
- 仲間
- 日本とアメリカの人たち
が大切に守り続けている「記憶」の集まりです。
まとめ
最後に、この記事のポイントを整理しておきます。
- 妻・生原喜美子さんは、夫の生涯をつづった
『ドジャースと結婚した男 夫・アイク生原の生涯』の著者であり、
31年間夫を支えた「もう一人の語り手」でもある。 - 息子たちは、
- 1人は医療の道(医師・医療従事者)
- もう1人はドジャース球団スタッフとして野球界
という形で、父と同じく「人を支える・つなぐ」仕事をしていると報じられている。
- 孫の興梠サラさんは、サーフィンとビジネスの世界で、
「祖父のように日米の架け橋になりたい」と語っている。 - オマリー家との絆は、
- 「家族は別々に暮らすものではない」という言葉
- お墓がオマリー家のすぐ隣にあること
などからも、単なる雇用関係を超えた“家族のような関係”だったことが分かる。
- そして何より、
「家族を大事にしながら、人と人をつなぐ仕事を貫いた」という生き方こそが、
アイク生原さんの一番の「功績」なのかもしれない。
おわりに
「生原昭宏(アイク生原)家族」と検索すると、
「娘」「息子」「妻」「死因」など、さまざまなキーワードが出てきます。
人はどうしても、有名人の“裏側”を知りたくなってしまいますが、
そこにあるのはスキャンダルではなく、
- 異国で挑戦する夫を支えた妻
- その背中を見て、自分なりの形でバトンを受け取った子や孫
- 血のつながりを越えた「家族」として支えてくれたオマリー家
という、とてもまっすぐで温かい家族の物語でした。
もし、もっと深く知りたいと思ったら、
- 妻が書いた『ドジャースと結婚した男 夫・アイク生原の生涯』
- 親族が書いた『東京オリンピック野球復活・陰の立役者 アイク生原の知られざる生涯』
といった本を読んでみるのもおすすめです。
この記事が、
アイク生原さんと、その家族に興味を持ったあなたの「入り口」となればうれしいです。



